面白い本とはどんな本か

コラム

純文学と大衆文学(熊野堂)

 次週からほんの少しだけ本ブログをリニューアルします。処方箋というスタイルを変更するので、タイトルも変更したいところですが、まあ形式はそれほど変わりません。本ブログでは大衆文学系を紹介することが多いですが、僕自身はジャンルはあまり意識していません。どっちがいいとかは関係なく、面白ければいい。面白いものを紹介したい。リニューアルを前に、今回はおまけでそうしたスタンスを説明します。

ポイント

・純文学と大衆文学

・私の純文学入門

・私の大衆文学入門

純文学と大衆文学

 一般的に純文学は純粋な芸術的感興を唯一の必然として書かれた小説といわれてている。高貴な精神性があると。随分、上から目線だ。対する大衆文学は、読者本位の興味を中心とした作品というわけである。かつて、今もそうした論争はあるだろうが、一読者からすればどうでもいい話である。本当に面白い作品は、その両方を内包している。ジャンル分けは関係ない。

 試しに純文学の代表的な芥川賞(これも全て純文学というわけでもない)、大衆文学の代表格直木賞作家でどんな作家を読んできたか拾い出してみた。愛読しているとは限らない。一応読んだことはある程度の作家も含む。

【芥川賞】

 今村夏子、村田沙耶香、羽田圭介、又吉直樹、津村記久子、綿矢りさ、吉田修一、川上弘美、高橋三千綱、宮本輝、三田誠広、中上健次、村上龍、遠藤周作、北杜夫、安部公房、井上靖…。

【直木賞】

 窪美澄、米澤穂信、門井慶喜、恩田陸、西加奈子、黒川博行、桜木紫乃、朝井リョウ、辻村深月、道尾秀介、北村薫、森絵都、三浦しをん、東野圭吾、角田光代、奥田英朗、江國香織、村山由佳、石田衣良、山本文緒、重松清、桐野夏生、佐藤賢一、宮部みゆき、浅田次郎、赤瀬川隼、宮城谷昌光、景山民夫、連城三紀彦、向田邦子、志茂田景樹、半村良、渡辺淳一、陳舜臣、安西篤子、池波正太郎、司馬遼太郎、城山三郎、新田次郎、柴田錬三郎、海音寺潮五郎

 意識はしていなかったが、明らかに大衆型に偏っている。もともと、メジャーな賞を取らないような作家を好んで読む傾向があるとはいえ、明らかに芥川賞作家が少ない。芥川賞作家の中でも大衆文学寄りの作家が目立つ。

 僕が何を面白いと思うか。深くて、うまみのある作品である。文学はさまざまな思考実験の場である。その中で、とことん個の思考を突きつめた作品は、深いけれどうまみはないものも多い。逆にうまみがあって、その奥底をどこまでも覗ける深さがある。僕にとっての面白い小説とはそういう作品である。

私の純文学入門

 私が純文学(と呼ばれるもの)を意識的に読みだしたのは大学に入ってからである。名作と呼ばれるものを図書館で借りて、手あたり次第読んだ。その中でも好みはやはり出るもので、日本でいえば志賀直哉や中島敦というちょっと地味な作家が好みだった。

 タイトルと長さに圧倒され、高校時代ならまず読まなかった「罪と罰」(ドストエフスキー)もこの頃に読んだ。これが意外と面白かった。「純文学」「名作」へのアレルギーを払拭してくれた作品である。個と社会の問題を深く描きながら、エンターテイメント性も高い(長すぎて何度も読みたくなる作品ではないが)。

 冒頭、いきなり主人公の男性が金貸しの老婆を殺して、金を盗もうとする。そこでアクシデントがあり、重度の知的障碍のある女中も殺してしまう。主人公の中で、老婆は悪人で殺害する自身は英雄という設定がなされていたが、女中は何も悪くない。単なる悪人になってしまう。この殺人事件をめぐる警察側との心理戦、恋愛、主人公が単なる悪人でなく、善人の心をもっており(むしろ基本的には善人)かつて助けた女性との再生。さまざまな要素が深く、うまみを持って描かれる。セリフは長いし、名前も覚えにくいので挫折する人も多いが、名作と呼ばれる外国作品の中では読みやすい部類である。

 日本の作品では志賀直哉や中島敦は短編で、読みやすく、読後感も深くてうまい。芥川龍之介や太宰治のように語る人が多くないのも居心地がいい。

私の大衆文学入門

 僕がファンタージ―、架空歴史小説を好んで読むようになったのも大学に入ってからだ。個と社会、歴史、ミステリー、恋愛、さまざまな要素を内包し、人生を問う。ファンタジーにそうした要素を感じたからである。もちろんすべての作品がそうではない。

 中でも影響を受けているのが「銀河英雄伝説」「アルスラーン戦記」などおおよそ、文学界では主流にならない作品である。銀河英雄伝説は、民主主義とは、戦争と平和とはなど大きなテーマも、親と子とは、自分らしく生きるとはいった個の問題もエンターテイメント中に包んでいる。単にストーリーを楽しむもよし、その奥にある深いテーマを探究するもよし。銀河英雄伝説は誕生して刊行40年を経ても、長くファンを引き付け、さらに新たなファンを獲得し続けている。「そんなの文学じゃない」「ただのエンタメだろ」と見向きもしないでいるのはもったない。

 優れた文学作品は売れないというのが定説で、私も支持するが、だからといって売れていない作品が優れているとはならない。そして、売れている作品には確かに売れる理由がある。それが一時的でなく、長期的なものだとしたら、無視するのはどうだろうか。

編集後記

 長距離走は自分との戦いと「誤解」されがちである。確かにそういう側面はあるが、それはどのスポーツ、世界にもいえる。自分とだけ戦うなら、一人でジョギングしていればいい。相手がいてこそレースである。文学も思考の深さだけを追い求めて、読者に届かないなら単なる日記であり、独り言でいい。読者が読んで、感想を持って初めて文学は完成するのではないだろうか。多くの人に届くのがいいとは限らない。でも、誰か一人の心の奥底に届き、その人の心を動かすことができれば、それは立派な文学作品である。自身の読書体験がそうだった。誰か1人でもいい。深く届き、何度も繰り返して読みたくなる。そんな作品をいつか自分でも書いてみたい。

 

 

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