「学校」をつくり直す(苫野一徳)
小1プロブレム、学級崩壊、いじめ、学力テスト重視…。「なんだかおかしい」。けれども、学校のシステムはどうせ変わらない。本当だろうか。「みんな同じ時間割」「みんな同じ教材」「みんな同じテスト」は「当たり前」ではない。未来の社会をつくる子どもを育てる。学校が変わるために何ができるか。学校だけでなく、会社にも通じる要素が満載。気鋭の教育学者の提言。
学校ってなんか変だよね、どうも馴染めない、好きじゃない。そう思っている方、これを読めば違和感の正体も改善方法も見えてきます。
お薦め度
学びの個別化
みんなで同じことを、同じペースで、同質性の高い学級の中で、教科ごとの出来合いの答えを、子どもたちに一斉に勉強させる。学校の「当たり前」の慣習的なシステムが、今の学校のさまざまな問題の根っこにあると著者は指摘し、「学びの個別化」を提言しています。
子どもは興味・関心も、学ぶペースも、自分に合った学び方や適した学習空間や、いつ誰とどのように学びあえばいいかなども全部異なっています。しかし、学校はいつ、何を、どのように学ぶかをあらかじめ決めてきました。
世界ではすでに「学びの個別化」を長年実践している学校がたくさんあるそうです。そうした学校では子どもたち自身で1週間、1カ月以上の学習計画を立てます。学習内容は日本と変わらなくても、自分のペースや学び方で進めると学習意欲に大きな違いが出るはずです。分からなくても授業が進んでいくことはないし、分かっていたら自分でどんどん先に進むことだってできます。
個別化は授業だけではありません。テストもです。本来一斉のテストも、序列化もいらないのです。学校教育は9年間の義務教育で必要な水準を保障さえできればいい。到達を保障するためにも、学習計画やテストも個別化すべきであると主張しています。
2年生で九九を覚えられなくても、3、4年生になってマスターすればいい。人より少し遅れても、その後、グッと挽回できるチャンスはあります。分からないまま進む従来の授業では、取り残されるだけです。逆に九九を1年生でマスターし、小学生のうちに中学校の数学に進んでもいい。
僕も「みんな同じ」には子どもの頃から違和感を持っていました。本を読むのが好きだったので、国語の教科書なんかもパラパラ先に読んでいましたが、授業は全然進まない。何年生だったか、教科書の最後の方に物語を作ろうという単元があって、楽しみにしてたいたら、そこまでたどり着かない間に学年が終了してしまいました。やる気があっても生かせない、そがれてしまう。
授業についていけない人の問題も納得です。高校時代、同級生に頼まれて僕も得意ではない数学や理科を教えていました。その同級生たちの数学(算数)理解は小学生レベル、それも中学年程度で止まっていて、中学校時代などは全く意味も分からず授業を受けていたはずです。置いてけぼりを生んでも止まらず進む授業の弊害を実感しました。この点、小規模校は図らずも個別化に近い授業をしているかもしれません。
学びを遊びに
では、学校を変えるために何が必要なのか。用意された問いと答えばかり学ぶのでなく、「自分なりの問いを立て、自分なりのやり方で、自分なりの答えを出す」という「探究型の学び」です。学校はこれまで、子どもたちに「問いを立てる」という経験さえ十分に保障できていませんでした。思う存分、自分の関心あることを探究する機会ができれば、学びの意味は大きく変わるはずです。
探究のテーマは先生が用意してもいいし、成長に応じて子ども自身が設定してもいい。ただし、与えられたテーマであってもそれにまつわる「問い」は、子ども自身が立てる。例えば「ジャンヌ・ダルク」がテーマの場合。「問いを立てる」ためには、まずそのテーマに浸り、多くの知識を得る必要があります。そうでなければ、問いが生まれません。ジャンヌ・ダルクを主人公にした歴史マンガを読むかもしれないし、その内容について仲間と議論するかもしれません。そうやって自身の問いを立てていきます。その中で中世ヨーロッパ、百年戦争、キリスト教、火刑のことなど興味を持ったことを学び取っていきます。
テーマに浸れば小さな問いがいくつも生まれ、そこから小さな答えが見つかる。さらにそこから大きな問い、答えが生まれるかもしれません。自身の探究心に動かされて学び進める「探究」の経験は学ぶことの意義それ自体を子供に理解させてくれるものだとしています。
もっと分かりやすくいうと、「学び」を「遊び」にしてしまおうということ。「学び」と「遊び」をもっと連続的にするのです。子どもは遊びの中で、自分の関心をとことん追求していきます。複数人で遊ぶこと、異年齢と遊ぶことも学びになります。「学び」の姿も同じです。学びに浸るほど夢中になれば時間を忘れます。学びは本来ワクワクするもの。新しいことを知り、成長していくのを実感するのがワクワクしないわけはありません。小学校に入ったとたんに分断される「遊び」と「学び」ですが、両者は連続していて、遊びの土台があってこそ、学びが生かせるはずです。
これは学校に限ったことではありません。僕にとって仕事は遊びの延長です。興味のあることを調べて伝えたり、問題点を提示したり、一緒に課題解決したり。やらされている感が強い人、一向にテンションが上がらない人など不思議でしょうがない。仕事を遊びにできるか、どうか。個々の資質もそうですが、会社としてそんな雰囲気に持っていけるかが問われています。
メソッドの罠
〇〇メソッド、〇〇モデル。時にブームを巻き起こし、あちこちで取り入れられてはしぼんでいきます。いずれのメソッドもよく考えられたものですが、万能の方法はありません。目的や状況によって使い分けたり、組み合わせたり。時には新たに作り出したりする必要があります。要は「何のため」の方法か認識することが大切なのです。学校現場に限らず、「手段の目的化」は無数にあります。
テストは何のため?、運動会は何のため?、「起立、礼、着席」は何のため?。今コロナでこうしたことも見直す機運が高まっているような気はします。会社でも新しい手法を提案すると飛びついてはくれますが、本質は一向に理解されない。表面的な新しさにとらわれてしまう。こっちはコロナから特に学んでいる感じではないですね。