わかりあえないことから(平田オリザ)
こんな内容
日本のコミュニケーション教育は、多くの場合「わかりあう」ことに重点が置かれています。この本は「わかりあえない」ことが出発点。わかりあえない中で、少しでも共有できる部分を見つけたときの喜び。目からうろこのコミュニケーション論。
コミュ力なしのままアラフィフ
こんな本を手にするくらいだから、僕はコミュニケーション能力に自信がありません。面接試験は100%落ちる自信があるし、合コンに行ってもきっと100戦100敗するでしょう。知らない人に(知っている人ならなおさらか)自分をアピールするなんて恥ずかしくてとてもできそうにありません。
そんな調子でアラフィフまで来てしまいました。でも、大丈夫。今まで勤めてきた3社はかっちりした面接はなかったし、同じ学校とか職場関係とか狭い中でも出会いはありました。仕事はほとんどの時間が外回りで、毎週のように初対面の人に出会いますが、こちらは仕事モードだと割と平気です。むしろ、社内の人間関係の方がやっかい。社内にいる時の方がアウェー感があります。わかりあえない中で模索するのがコミュニケーションなら、結構鍛えられています。
伝えたいという気持ち
スピーチやディベートなど「伝える技術」を学んでも、「伝えたい」という気持ちがないと定着しません。「伝えたい」という気持ちはどこから来るのか。それは「伝わらない」という経験からなのではないでしょうか。
それを経験するには障碍者施設や高齢者施設を訪問したり、外国人とコミュニケーションをとる機会を増やしたりするのがいいそうですが、学校で取り組むのは難しい。そこで、演劇的な授業が大きな役割を果たすと筆者は言います。
演劇は常に他者を演じることができる。つまり、異文化を疑似体験できるのです。しかも、自分を出発点にできる。自分と、演じる役柄の共有できる部分を見つけていくことで、世間と折り合いをつけるすべを学べる。この話を聞いて、がぜん演劇に興味がわきました。大学時代に映画研究会にいて、ちょこっとだけ演技もしたことありますが、演じることにこんな意味があったなんて。全く知らずにやっていました。もったいなかった…。
インプットとアウトプット
インプットとアウトプットに対する海外との考え方の違いも興味深いです。
ヨーロッパの国語教育の主流は、インプット(感じ方)は人ぞれぞれでいい。文化や宗教が違う人たちが集っているのだからその方が自然です。ただし、多文化共生社会の中ではバラバラな個性を持った人たちが、全員で社会を構成しないといけないので、アウトプットは一定時間の間に何か出さなくてはいけません。
日本ではこれが逆で、インプットは狭めるのに、アウトプットは個人の自由。現実の社会はどちらが近いかは明白で、アウトプットがバラバラでいい会社があったら即つぶれますよね。どの会社にも多様な意見や提案、そしてそれをまとめる力が必要なはずです。
フィンランドの教育では、いい意見を言った子より、様々な意見をまとめた子が評価されるそうです。いろんな会議に出ていますが、持論(借りてきた持論が多いですが)を延々述べる自称アイデアマンが大きな顔でしゃべり続けると何も決まりません。大切なのは合意形成能力なんですよね。
課題は山積していますが、筆者は言います。「演劇は人類が生み出した世界で一番面白い遊びだ。きっと、この遊びの中から、新しい日本人が生まれてくる」。