街道をゆく8 熊野古座街道(司馬遼太郎)
和歌山県南部にある古座街道は、上富田町から串本町の主に山間部を通る道で、全長約80㌔。江戸期から明治中期までは田辺から古座間を最短距離で結ぶ重要な道で、熊野の歴史と文化を育み、生活を支えてきた。作家・司馬遼太郎さん(1923-96)の「街道をゆく」シリーズの中でも人気のある街道で、アンケートで全国1位に選ばれたことも。司馬さん自身も愛着があったようで、この地に別荘?もある。2023年は司馬さんの生誕100周年。
古座街道がなぜそんなに人気なのか。その謎は読んでも分かりませんが、確かにこれを読めば行ってみたくなるかも。観光地をめぐる旅行より、何かテーマを決めて旅をしたい人にお薦め。令和版の「街道をゆく」があればどんな感じに書くだろうと興味をひかれます。
お薦め度
こんな話
和歌山県南部にある古座街道は、上富田町から串本町の主に山間部を通る道で、全長約80㌔。江戸期から明治中期までは田辺から古座間を最短距離で結ぶ重要な道で、熊野の歴史と文化を育み、生活を支えてきた。作家・司馬遼太郎さん(1923-96)の「街道をゆく」シリーズの中でも人気のある街道で、アンケートで全国1位に選ばれたことも。司馬さん自身も愛着があったようで、この地に別荘?もある。2023年は司馬さんの生誕100周年。
習俗
古座街道の通る古座川流域には大正時代まで若衆組というものが存在していたらしい。若衆組は男性が15歳で加入し、妻帯とともに退会するそうです。若衆組の主な目的は共同体の祭礼をすることで、これは現代にも形を変えつつ受け継がれています。もう一つ、若者にとっては自分を婚姻へ導いてくれる重要な機関だったそうです。若衆組は自宅で起居しない。両親の監督から離れ、若衆宿で寝起きする。そこから、よばいに出かけたのだとか。
やみくもにではなく、好きな女性のもとに通うのが基本で、若衆頭が監督します。もっとも人気のある女性の場合、複数の若衆が通うことになりますが。女性の方は複数の若者から好みに合う者を選ぶことができ、若者には拒否権はなかったとか。家々は戸締りをしない。泥棒が存在しないからですが、もし戸締りをしていたら若衆に迷惑がかかる。若い女性がいる家で戸締りしていたら、若衆の怒りを買ってしまうからだといいます。そのくらい、若衆に影響力があったと。
もちろん、今はこうした習俗はありませんが、大正といえばほんの100年くらい前の時代。そんな最近までこんな習俗があったのは驚きです。
地元では有名な串本節の歌詞にこれまで意識したことがありませんでしたが、よばいの帰りを描いたシーンがありました。「わしら若いときゃ、津荷まで通うた。津荷のドメキで夜が明けた」。熊野灘の荒磯で日が昇るのを迎える。そんな意味だったんだと初めて知りました。
変わるもの、変わらないもの
街道がゆく、古座街道が連載されていたのは1975年なのでもう50年近くも前。古座街道はかつて栄えたころと、まったく姿を変えていました。現在は執筆当時よりさらに姿を変えています。今はほとんど人の気配がない真砂地区。執筆当時は家が20戸ほどで、見るからに典型的な過疎村と表現されています。そこに昭和のはじめごろには100戸以上あり、ちょっとした町を形成していたそうです。銀行も2軒あり、理髪店もあったとか。今訪れると、わずかにかっての繁栄を伝える建物が残るのみです。
一方、街道沿いで目にする一枚岩などの奇岩、巨岩はどの時代も変わらず存在し見る人を驚かせています。古座川河口付近の伝統行事、河内祭も存続しています。作中に古座川河口のまちに昔からの理髪店が残っているというエピソードがあり、探してみましたが今はさすがに残っていませんでした。
司馬遼太郎
司馬遼太郎さんは1923(大正12)年、大阪市生まれ。60(昭和35)年に「梟(ふくろう)の城」で直木賞受賞。66(昭和41)年に「竜馬がゆく」「国盗り物語」で菊池寛賞をはじめ、多くの賞を受賞しました。代表作に「坂の上の雲」「翔(と)ぶが如く」「功名が辻」といった小説、「街道をゆく」「この国のかたち」などの紀行、エッセーなどがあります。
今でもさまざまな読書ランキングには必ずと言っていいほど登場する人気作家で、映像化された作品も多い。でも、僕自身はそれほどなじみのある作家ではありません。何冊かは読んだことがありますし、映像化作品も観ていますが、特別ファンではありません。持っている本も「街道をゆく」と「項羽と劉邦」のみです。エンターテイメントとして面白い。歴史家ではないと批判もありますが、作家ですからおかしな批判です。小説と史実を混同する人が多いのは困りものです。一方で、結構凝り固まった決めつけもあって、今の時代に合わない要素も多々見受けられる気がします。まあ23年は100周年で再度注目を浴びそうです。