許されざる者(辻原登)
紀伊半島、熊野川河口の街を舞台に描く歴史小説。
20世紀初頭、和歌山県新宮を思わせる架空の街、森宮。「毒取ル先生」
と呼ばれて親しまれる医師・槙と周囲の人々には、日露戦争開戦の足音がすぐそこに迫っていた。当時の情勢と熊野の人々を瑞々しく描く。(集英社ホームページより)
和歌山県出身の芥川賞作家による、和歌山を舞台にした長編。主人公にはモデルはいますが、架空の人物。でも出会う人々の中には、実在の有名人もちょくちょく出てきます。歴史好き、和歌山に興味のある人にお薦め。長編ですが、読みやすいのでサクサク読めると思います。
お薦め度
熊野の神話性
今年話題になった「100年の孤独」は南米の村という設定が、妙なリアリティーを生み出していました。この作品も熊野(モデルの新宮市を含む紀伊半島の南部)の持つ神話性が物語に生かされています。自然のダイナミックさ、都(かつては京都、作品中では東京)から地理的に遠い、日本の隅っこ(熊野の語源とされる)にあって、時の権力者に物申す気風もある。そんな土地だからこそ成立する物語です。
まちの名前は森宮に置き換えられていますが、出てくる地名や店名は新宮にあるそのまま。寺社はもちろん、有名なウナギ店は今も営業しています。主要登場人物の一人、勉が住む潮岬は僕の出身地。めちゃくちゃいい場所として書かれていますが、大げさではないです。ここで太陽の光を浴び、360度広がるような海を眺めていると、しんどくても頑張れる気がしてきます。
大逆事件
物語のモチーフとなっているのが大逆事件。デジタル大辞泉によると、明治43年(1910)多数の社会主義者・無政府主義者が明治天皇の暗殺計画容疑で検挙された事件。大逆罪の名のもとに24名に死刑が宣告され、翌年1月、幸徳秋水ら12名が処刑された。幸徳事件。とあります。
この処刑された中の一人が、物語の主人公、槙のモデルとなった大石 誠之助。作中の槙のように、海外で知見を広げ、奉仕活動や社会運動の応援などさまざまな活動をしていたのは物語と同様です。物語の中で幸徳秋水は森宮を訪れますが、史実としても新宮を訪れています。
そして、物語に背景にあって欠かせない大きな要素が日露戦争。当時としてはとても大きな戦争で、日本は形としては勝ったといわれていますが、その損害はとても勝利国のそれではありませんでした。戦争に突き進もうとする人、反対する人。その時、国の空気はどうなるか。これは現代にも通じる話です。日本の隅っこでも、いや熊野だから日本の一大事にこんな物語が起こっていた。そう考えるとワクワクしてきます。
主人公と絡む主要人物で、親類の勉と千春は、建築家、画家、陶芸家、詩人、生活文化研究家で資産家の西村伊作がモデル。1人の人物が2人、それも男女に分かれて個性を持ち活躍します。西村伊作建築の家も新宮市に残っています。写真がそうです。
実在の人物は史実通りにほぼ動いており、そこに槙がタイミングよく抜群のさじ加減でかかわるのも歴史好きとしてはたまらない。僕は森鴎外のことをあまり知らなかったので、こんなとことで出てくるんだと驚きました。警察に捕らわれた槙への差し入れの本が「吾輩は猫である」だったのも、時代性を感じさせられます。
不倫
社会的な問題を扱う一方、物語のもう一つの軸が槙と、かつての森宮藩主の血を引く永野の妻との不倫です。ドロドロしたものではなく、あった瞬間にひかれあい、困難がありながら逢瀬を重ねていきます。それが、大ピンチにつながるという展開で、そうきたかと。虚実の混ざり具合が絶妙です。
ところで、不倫は許せないことでしょうか。当事者である不倫された夫、妻はそうかもしれませんが、他の人には大した影響はないはずです。ところが、社会的には大バッシングを浴びます。それがどうも行き過ぎているような気がするのですが。結婚した後に、気になる人に出会う可能性は当然あるし、そこから恋愛に発展することだってあるでしょう。結婚しているから、そんな気持ちを持ってはいけないとまでは言えないですよね。行動はもちろん、思想ほど自由ではないですし、いったん夫婦関係を終わらせてから、次の恋愛に移るのならいいのか。許せない派の人の意見はどうでしょうか。(僕は不倫を推奨しているわけではありませんが、あまりに過度に批判し過ぎなのではというスタンスです)。
許せない人はいますか?
タイトルの「許されざる者」は、いろいろなイメージを生みます。主人公の不倫のことなのか、大逆事件のことなのか、大逆事件を生んだ冤罪のことなのか。もっと大きく、許せない人をつくってはいけないというメッセージなのか。
僕は温厚な人間ですが、許せない人はたまにいます。でも、それはあまりよくないことなのかなとも思っています。世の中には無数の正しさがあり、自分のそれと違うからといって無下に否定はできないからです。「絶対的な正義と悪が存在する、という考えは、おそらく人間の精神をかぎりなく荒廃させるだろう」(ヤン・ウェンリー)。
編集後記
和歌山出身で、芥川賞作家、なのに読んだことがなかった辻原登。作品のタイトルはいくつか知っていて、どれにしようかと迷ったけれど、地元熊野を題材にしたこれが最初でよかったです。堅苦しくない娯楽小説で、歴史を楽しみ、考えさせられることもある。「翔べ麒麟」も読んでみようかな。