熊野古道はただの山道?なのになぜ注目される?/聖地巡礼

実用書

聖地巡礼 熊野紀行(内田樹×釈徹宗)

なぜ人は熊野に惹かれるのか?

熊野古道、熊野本宮大社、花の窟神社、那智の滝…。熊野にむき出しの宗教性を見る。日本の霊性を再生する。

熊野にはゆるぎないパワーがある!

釈「熊野はどこの系譜にも当てはまらない。本当にプリミティブな聖地です」

内田「熊野の宗教的・儀礼的な牽引力は次第に強まっていくんじゃないでしょうか」

本書帯より
熊野堂
熊野堂

一見、全国どこにでもあるような山道をわざわざ歩く人がいる。日本の霊性、といわれるとうさんくさい。この本の霊的な話はうさんくさい。でも、なぜ人は熊野を目指すのか。少し共感できる部分もある。熊野古道ってなんだ?行ってみたいけれど、どんなとこ?と思っている人の入門編に。

お薦め度 

ポイント

・巡礼とは

・行き過ぎる日本人

・ボーダーを越えよう

・聖俗

巡礼とは

 タイトルにもある聖地巡礼。いまや、ドラマやアニメの舞台を巡ることを指す言葉として普及いていますよね。でも宗教的な聖地巡礼も本質はそう変わりません。

 巡礼は大きく二つのタイプがあります。ある特定の聖地に参って帰って来る「往復型」、いくつもの聖地を順次経て巡る「回遊型」です。前者はメッカ巡礼やサンティアゴ巡礼、後者は四国のお遍路といったところです。

 では熊野古道はどうか。聖地に参って帰って来る「往復型」にも見えますが、熊野に至るには九十九王子を参詣するプロセスがあり、「巡回型」でもあります。巡礼のコースも中辺路、大辺路、小辺路といくつものコースに分かれています。

 熊野はバスで巡ってもありがたくないし、たいして面白くはないです。「これが世界遺産か」と驚くようなスポットや建物はほとんどないからです。信仰心がなくてもどこかスピリチュアルな雰囲気がある空間を歩く。ただそれだけなのが人気の秘密のようです。

行き過ぎる日本人

 歩くといろいろなことを考えます。自分や社会を見つめます。本書の聖地巡礼の途中に熊野古道の話題と直接関係ない、日本人は必ず、行き過ぎる、というくだりは興味深いです。

 今の若者は競争で勝ち残るよりは、あるものをどうやって平等に分かち合うかというフェア&シェアの社会。でも、それは行き過ぎへの補正で、それも必ず行き過ぎるといいます。格差拡大を補正するという大義名分があり、やっていることは「正しい」。でも、「正し過ぎる」と災厄をもたらす。 これは本当によくある話です。

 正義が正義になりすぎないように、いいあんばいのところで手控えるというのは「大人の知恵」ですが、社会的に成熟しないと見につかない。不公平に怒っている人たちにそれを求めるのもまた難しい。

 歩いて考えたらこうした問題が解決するわけでもありませんが、歩くという行為は思考を深める作用があります。自分のこと、地域のこと、世界のこと。熊野古道を歩いて考えてみませんか。

ボーダーを越えよう

 世の中にあるさまざまな二項対立。世界は連続してつながっていて、境界線はないはずです。でも、人間は境界線を引かずには生きられない。線を引かないと不安になるからです。

 本書で描かれるボーダーはなかなかです。「UFOや霊魂なんてあるわけない」と線引きしてしまう。とありますが、まあそれは別にいいのでは。宇宙人はどこかにいるでしょうし、地球の宇宙船だって宇宙人からみたらUFOでしょうし。霊魂はある、ないを議論してもなかなか答えはでないでしょうから、「ない」と言いきってしまうのはよくないかもしれない。でも、二項対立ってそこ?もっと重要な問題があるのではと読みながら突っ込んでいました。

 熊野はこのボーダーを越えたところにあるのではないでしょうか。そもそも、神道、仏教、修験道と異なる宗教がゆるやかにつながって霊場を構成しています。歴史上、世界で起こる紛争の多くは宗教的な対立(に見せかけた経済戦争も多いですが)なのに、熊野にはそれがない。ボーダーを越えた存在として今、注目度を高めているのかもしれません。

聖俗

 笑えるのは那智の滝のくだり。那智大社には那智の滝という絶対的な宗教装置があるから、他はなんでもいい。どんな俗なものが周りにあっても、滝のパワーは落ちない。むしろ強力すぎる宗教的パワーを緩和するために、俗っぽい看板や土産物屋があるのでは。現場の人が読んだらどう思うか分かりませんが、聖地に俗っぽいものが多いことに対する一つの回答として興味深いです。

 もっとも聖地の奥、聖地を支える人は俗っぽい人が多い印象です。そもそも、宗教家にお金が集まる仕組みはどう考えても不自然です。貧しい人に分配するならまだしも、自身の懐に入れてしまう。自分の都合ばかりおしつける。俗っぽい姿をさんざん見てきました。もちろん、聖を司る人も周囲からさまざまな圧を受けながら運営しているのでしょうが。聖俗は表裏一体。これも二項対立では語れない問題ですね。

編集後記

 僕は霊的なパワーなんて信じないし、信仰心もまったくありませんが、聖地巡礼的なことは結構しています。なぜか訪れたくなるのは、好奇心を刺激する要素があるからなんでしょうね。内田さん、釈さんの話は全面的には賛同できませんが、ところどころの社会、人間の見方は共感できます。

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