熊野御幸(神坂次郎)
熊野御幸とは上皇(法皇)の熊野詣。白河・鳥羽・後白河・後鳥羽上皇の院政期が中心で、この四上皇の度数がとりわけ多い。全体で100度を数える。この作品は後鳥羽上皇の熊野御幸に随従した歌人、藤原定家の記録を、和歌山県出身の作家、神坂次郎が描いている。
2024年は熊野古道を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産登録20周年。平安の都からも、令和の都からも遠い熊野がなぜ注目されるのか。平安の人々は何を求めていたのか。藤原定家と聞くと、しっかりした旅の記録なのかと思いきや、なかなか笑える部分や令和に通じるような話もあって、気楽に読める作品です。熊野古道ってなんだ?という方もぜひ。
お薦め度
熊野とは
ブログのタイトルにもなっている熊野。でも熊野ってどこ?と思っている人も多いはず。
熊野は日本の中の異邦でした。ざっくり言うと紀伊半島南部。温暖多雨で、山が深く(決して高いわけではない)樹林が天を覆って黒々と生い茂り、自然の条件そのものが幽暗、人間が死んでから行く冥府のような雰囲気が立ち込めていたーと本書にはあります。いや、僕たちはそこに普通に住んでいるし、集落があるところは冥府な感じはしませんが。でも奥に入ると確かにそんな雰囲気は今もあります。
京の都から往復1カ月、170里(670㌔)。紀ノ川を渡り、藤白峠を過ぎて、有田、湯浅、御坊、井波と海明かりのする道を田辺へ向かいます。田辺は熊野への入り口、口熊野です。そこから熊野本宮に向かう山中の道、中辺路を分け入ります。本宮からは熊野川を舟で下り、新宮、那智と熊野三所権現を巡って、那智の背後にそびえる妙法山に登り、雲の中をくぐるような大雲取山、小雲取山の険路を越えて再び本宮に出、中辺路往来を通って都へ帰ったそうです。このルートは今も基本的に歩いて通れます。
ずっこけ道中
藤原定家とは何者か。デジタル大辞泉によると、名は「ていか」または「さだいえ」。1162~1241鎌倉初期の歌人。有心体(余情深く妖艶)の象徴的歌風を確立し、歌壇の指導者として活躍。「新古今和歌集」の撰者の一人。のち「新勅撰和歌集」を撰し、<strong>「源氏物語」などの古典の校訂・研究者としてもすぐれた業績を残した。とあります。
なかなかすごい人のようですが、作中の定家は昭和風に言うと「ずっこけ」キャラです。寝坊して旅の出発に遅れたり、潮水をかぶって身を清めるも風邪を引いたり。当時40歳。貴族だけれどそれほど身分は高くはなく、若手にどんどん抜かれている。当時の40歳は今の年齢に換算するとだいぶ年上なのだと思いますが、なかなかの苦労人のようです。
身分の高い人は辺境の旅先であってもしっかりした宿所がありますが、定家の泊まる場所は隙間風の吹き込む土間。床さえないとは。バックパッカーもびっくりです。下人に適当な民宿を探させ、ようやく見つけた1軒に入ると、そこはまだ喪が明けてない家。不浄の身で、熊野御幸に参加できません。夜中に海水を浴びて身を清め、風邪を引く。コメディのような展開です。
「光る君へ」と熊野古道
源氏物語に熊野古道は出てきませんし、大河ドラマ「光る君へ」でもおそらく熊野古道は出てこないでしょう。この時代にも熊野詣はありましたが、有名になるのは、同じ平安時代でももっと後の時代です。ただ、「光る君へ」の登場人物で、熊野古道とゆかりが深いのが1人います。花山院です。
花山天皇はドラマで、本郷奏多がエキセントリックに演じ話題を呼びました。現存した天皇をこんな風に演じるんなんて、初めての試みだったのでは。
天皇の座を追われ、裏切られ、心ならずも世を捨てざるを得なくなった花山院は熊野に向かいます。中辺路町近露の熊野古道には僧形の童子が牛と馬にまたがった高さ50センチばかりの石像があります。花山院の熊野御幸を刻んだものと伝承がある牛馬童子です。悲劇の天皇は、熊野古道のシンボルキャラクターとして令和の今も愛されています。
名著には熊野古道
熊野古道はいろいろな著書にちょくちょく出てきます。近世の熊野街道が開かれるまで、岩城王子から千里王子までの古熊野の道は浜づたいにのびていました。熊野への苦しく長い旅の中で、砂浜づたいの道が「千里の浜」です。
千里の浜は多くの旅人をひきつけたようで、「伊勢物語」「枕草子」「大鏡」「太平記」「平家物語」「拾遺集」なども、それぞれ景観の素晴らしさを伝えているようです。
身を清める富田川の垢離場は「平家物語」「源平盛衰記」「義経記」「一遍聖絵」にも登場するようです
俳諧選集「ひさご」で芭蕉は、熊野に憧れる上臈(じょうろう=年功を積んだ位の高い人)の心を読んでいます。
編集後記
平安時代の熊野詣がどんなものだったのか。想像をかきたててくれました。熊野古道がなぜ平安時代も、令和の今も、日本人だけでなく、欧州やアジア、オセアニアなど海外の人々をひきつけるのか。それは実際に訪れて確かめてみてください。