寒い国から帰ってきたスパイ(ジョン・ル・カレ)
薄汚れた壁で東西に引き裂かれたベルリン。リーマスは再びこの街を訪れた。任務失敗のため英国諜報部を追われた彼は、東側に多額の報酬を保証され、情報提供を承諾したのだ。だがすべては東ドイツ諜報部副長官ムントの失脚を計る英国の策謀だった。執拗な尋問の中で、リーマスはムントを裏切り者に仕立て上げていく。行く手に潜む陥穽をその時は知るよしもなかった。
英米の最優秀ミステリー賞を独占したスパイ小説の金字塔。
ハヤカワ文庫カバーより
スパイ小説の神髄のような物語である一方、今人気のスパイものとはずいぶん違います。もちろんノンフィクションではないけれど、この世界観はリアル。1963年の作品で時代は変わっていますが、決して古くありません。面白いスパイ小説が読みたい人、国際情勢に興味がある人にお薦め。
お薦め度
政治経済学部出身者もはまる
恥ずかしながら政治経済学部出身です。しかも、国際政治経済コース。政治経済学部自体は立派なのですが、僕自身が立派でないから恥ずかしい。文系の多くは経済学部だった時代に、なぜ数少ない政治経済学部を選んだのか。当時の国際情勢と無縁ではない、はずです。
長く続いた東西冷戦、ベルリンの壁崩壊、ソ連の崩壊、EUの誕生ー。中高生時代にさまざまな国際情勢の変化を見てきました。ニュースはもちろん、国際問題を論じる書籍が次々出版され、エンターテイメントも国際情勢を反映したものが多かった気がします。そして、何となく自分でも国際問題を考えるようになったのですが、入学後はさっぱりでしたね…。
冷戦時はスパイ小説の黄金時代でした。この作品は冒頭も結末も舞台は冷戦を象徴するベルリンの壁。スパイ小説には社会問題もサスペンスも恋愛も盛り込まれます。やはり昔のスパイ小説は面白い。いま冷戦時代以上に難しい時代が訪れています。もう一度(今度こそは)、国際政治経済を勉強してみようかな。
スパイも中年になるのか
有名なスパイと言えば007。最近ではスパイファミリーの「黄昏」(ロイド)ですが、いずれも若くて格好いい。そうスパイは格好いいというのがエンタメ世界での約束事です。しかし、この作品は違います。主人公は中年のおじさん。任務に失敗し、とことん落ちぶれていく(実はこれも任務)。そして、苦悩する。普通にさまざまなことに悩む。落ち込む。決してスーパーヒーローではないスパイ像がリアルです。作者自身が英国諜報部で働いていた経験があると言われています。実際のスパイに近いのはこちらなのかもしれませんね。
作者のスパイ小説シリーズの登場人物で、今作にも脇役で出てくるスパイにスマイリーがいます。スマイリーの役柄はともかく、スパイの名前がスマイリーなの?と思わなくもありませんが、そう思わせるのも作戦なのかもしれません。
騙されているのは誰だ
スーパーヒーローが主人公ではありませんが、作品はとにかく面白い。騙しているのか、騙されているのか。という知的な駆け引きはスパイ小説の神髄です。英国のリーマスの役割は、東ドイツ諜報部副長官ムントの失脚。ムントの部下に利用されているふりをしながら、実はムントが英国と通じていたと匂わせを連発し、陥れようとします。どこからが任務で、どこからが本心で、どこからどこまでが真実なのか。日本のスパイ小説、ジョーカーゲーム的なサスペンスドラマですが、ジョーカーゲームも登場人物は超人的に格好いい人が多い。中年のおじさんの奮闘ぶりはやはり目を引きます。でも、ネタバレはやめておきます。
個人と国家
スパイは国家のために個を消して働く存在です。実際には私生活もあるのでしょうが、基本的には個はなくて、そのことに耐えらられるメンタリティーが必要になります。でも、個より大事な国家ってあるのでしょうか。個の犠牲を求める国家って大丈夫でしょうか。個を消して、誰にも知られず活躍する、犠牲になるスパイを格好いいと思う人は、国家側でしょうか。
銀河英雄伝説に登場するヤン・ウェンリー提督は戦闘前に部下たちにこう言いました。「かかっているものは、たかだか国家の存亡だ。個人の自由と権利に比べれば、たいした価値のあるものじゃない」。日本は個を大事にする国だと感じますか。あなたの勤める会社や組織は、個を大事にしていますか。ちなみに、うちの会社では役職手当がついた途端、車両手当(仕事で自家用車を使用している手当)がなくなったそうです。手当はそれぞれ別物では?と思いますが。
編集後記
中高生のころ、国際ジャーナリスト?の落合信彦の国際政治論や小説、国際情勢や戦争、核を描いた「沈黙の艦隊」を愛読していました。なんだか世界の重大な問題に自分もかかわっているような感覚があった気がします。今の時代に沈黙の艦隊が映像化され、スパイファミリーが人気になる。国際情勢が大きく変化している時だからでしょうか。冷戦時代の作品を読みながら、ふと思いました。