母親になって後悔してる(オルナ・ドーナト)
子どもを愛している。それでも、母でない人生を想う。社会に背負わされる重荷に苦しむ23人の切実な思い。「母になると望むことが何もできなくなる。私たちは、そのことと闘うためのシステムを作らなければなりません」「子どもへの責任感と、子どもを思う気持ちが常にあります。重荷なんです」これまで語られてこなかった言葉があふれ出す。世界中で共感を集めた注目の書。
本書帯文より
「おじさん」とは単に性別的に歳を取った男性という意味でなく、世の中の「おじさん」的思考の人々の意味。女性でも若くても「おじさん」はいる。何が「おじさん」と言われるのか。世の中の異なる視点を得るために読んでほしい1冊。
お薦め度
社会的制約
おじさんはきっとこう言う。「後悔しているも何も。それって、あなたの選択でしょう」(こんな上品には言わないかもしれない)。でも、その選択は自由にできるのか。本書が最初に投げかける疑問である。自由に選べるのは、社会が女性たちに望む選択だけだったらどうだろうか。子どもを持つことや、男性とのパートナーシップを維持することを拒否した場合はどうか。行動を非難されるだけでなく、孤立して社会的地位を失う。「それはあなたの選択(悪い選択)ですよね」と。大半が「正しい選択」をすることを期待される。それが常に子どもを産むことである。私たちは多くの制約のもとで、子どもを持っている、または持っていない。
人生の選択で何が正しいか、本来決められるのは人生の主役である本人のみのはず。
後悔の理由
インタビューでは母親になった後悔が赤裸々に明かされる。「今戻れるのであれば、子どもたちをこの世に生み出さなかったと確信しています。それは私にとって完全に明らかなことです」。ただし、こうもある。「私は母になったことは後悔していても、子どもたちについては後悔していません」。
常に我が子に縛られているという経験は、要求の多い現代の母親像の影響であり、「良き母」は文脈に関係なく、常に母であり続けることを意識の最前線に置いている。始まりも終わりもない。何をいつどのように行うか決めるのは、時計ではなく、世話をする相手のニーズである。
父親もそうではないか。だが、どうも違うらしい。父親は「休憩」を取る能力があるが、母にはそれが難しい。一般的に父親は自分の時間の所有者になることを多分に許されており、そうする機会も多い。一方で、母親にはこれが少ない。
二者択一を超えて
「キャリア」と「子ども」のジレンマはよく聞く話。でも、どちらも欲しくないひともいるはず。親にならない人生を選択した場合、要求の厳しいキャリアや抑制されない快楽主義であるとされてしまう。好きなことを続けるために働いて稼ぎたいけど、「キャリア」や進歩を望まない人もいる。僕自身も会社での成功を追い求めるタイプではない。取材して、記事にしてという作業は好きで続けている。それで稼ぎもしている。仕事が主体であって、会社はその仕事を実現するための手段にすぎない。
母になりたくない理由がキャリアの追求にしかないと思うのは短絡的だ。一方で、多くの人がキャリア追求の幻想を抱いている。その苦悩はキャリアを追求しなければならないという「母親にならねばならない」と同じような強制のせいでは。疑問に感じることは多々ある。キャリアは追求もできるし、追求しなくてもいい。まずはこの状態にならないと、おかしな議論が加速してしまう。
編集後記
めちゃくちゃ話題になった本だが、購入後もなかなか読めずにいた。内容がヘビーすぎるのではないかと心配もあった。でも、作者はとてもフラットな立場で発言している。「私は母の後悔を称賛するつもりはない。同時に、心から母になりたいと望む女性を批判するつもりもない」。
僕は女性ではないし、母親でもない。でも、何も感じていないわけではない。強制されず、他者と比べず。それぞれが信じるものを選択できる。それが成熟した社会だと思っている。