海辺のカフカ(村上春樹)
「君はこれから世界でいちばんタフな15歳の少年になる」――15歳の誕生日がやってきたとき、僕は家を出て遠くの知らない街に行き、小さな図書館の片隅で暮らすようになった。家を出るときに父の書斎から持ちだしたのは、現金だけじゃない。古いライター、折り畳み式のナイフ、ポケット・ライト、濃いスカイブルーのレヴォのサングラス。小さいころの姉と僕が二人並んでうつった写真……。
新潮社文庫より
熱狂的なファンがいれば、もちろんアンチもいる村上春樹。僕もどうも受け入れがたいものがあるなと思っている一人ですが、少年の成長やロードムービーが好きなのでこの作品は読んでみました。面白いところもあるし、この程度かと思う部分もある。ロードムービー好きなら読んで損はありません。
お薦め度
2人の主人公
主人公は15歳の少年、田村カフカ。東京から西へと旅し、高松市にたどり着く。そこでのさまざまな経験を通じ、成長していく。一方、もう1人、東京から西を目指す人物がいる。ナカタさんだ。彼は戦中に少年時代を過ごした設定なので高齢者。ナカタさんは戦中の不思議な出来事を通じ、さまざまなものを失った。文字を読むこともできない。でも、猫と話すことができる。一見、なんの脈絡もないこの2人のストーリーが交互に登場し、交わっていく。構造を分析すると有名な神話が下敷きになっていて、登場人物がそれぞれの役割を担っている。
少年の成長はある程度パターンな悩みではあるが、ナカタさんのパートはなかなか先が読めない。ナカタさんだけでは旅ができないため、ホシノ青年が助けることになるが、ナカタさんとホシノの関係性がいい。そして、ナカタさんもホシノさんもカフカの神話を構成する役割を担いつつ、個人としての物語を生きる。ナカタさんが探す(どこにあって、どんな形状かも分からないのに)入り口の石とは何か。幻想、謎解き小説としても楽しめる。
小さな図書館の魅力
作中、重要な存在で、ぜひ行ってみたいと思わせる施設がある。甲村記念図書館である。古い大きな日本家屋を活用した私設図書館。甲村家は江戸時代から続く大きな造り酒屋で、先代は書籍の蒐集にかけては全国的に知られる人だった。先々代は、自身歌人であり、その関係で多くの文人が四国に来るとここに立ち寄った。若山牧水、石川啄木、志賀直哉とか。そうそうたる顔ぶれがこの屋敷に滞在した。図書館の蔵書は特殊な専門書が中心。昔の歌人、俳人とか、そういう人たちの古い本が多い。週に1回、火曜には図書館を巡るツアーも開催されている。
高松市を訪れたことはあるが、こんな魅力的な施設があることは知らなかった。美術館、博物館の類はチェックしているけれど、図書館は盲点だった。と思って調べると、架空の施設だった。残念…。図書館の描写はすごくリアルで、恐らく多くの人が検索してがっくりしているはず。この魅力的な図書館も物語のカギを握っている。
名言、迷言
物語の随所に名言、迷言がちりばめられている。哲学的な用語が会話の中でポンポン出てくるとこはご都合主義だなと思ってしまうが、名言も多い。「目を閉じちゃいけない。目を閉じても、ものごとはちっとも良くならない。目を閉じて何かが消えるわけじゃないんだ。それどころか、次に目を開けた時はもっと悪くなっている。私たちはそんな世界に住んでいる」。これはいろいろな場面で、多くの人が経験することではないか。
こっちもそう。「想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。一人歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。僕はそういうものを心から恐れ憎む。なにが正しいか、正しくないか。もちろんそれもとても重要な問題だ。しかし、そのような個別的な判断の過ちは、多くの場合、あとになって訂正ができなくはない。…。しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこに救いはない」
文学、音楽、もしかしたら人生を楽しむために。
「シューベルトは訓練によって理解できる音楽なんだ。…でも今にきっとわかるようになる。この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはたいていにおいて退屈なものだ。そういうものなんだ。僕の人生には退屈する余裕はあっても、飽きているような余裕はない。たいていの人はその二つを区別することができない」
編集後記
もうすぐ新作を発表する村上春樹。どの作品も有名なので何となくストーリーは知っていたけれど、実は読んだことがなかった(翻訳作品はあったが)。なるほど、さくさく読めて、何か深いような、深くないような。それなりに受け入れられる要素、文学的に評価されている理由も分かる気がする。
もっとも幻想小説としては、がっくりくるところもある。本家の幻想小説のようなリアリティーには欠ける。神話以外にもさまざまな古典が下敷きになっているようだが、それを把握していればより楽しめるのかもしれない。名言のくだりで紹介したような要素が僕にはまだ足りないだけか。