熊野古道巡礼(吉田智彦)
こんな内容
熊野古道の紀伊路、中辺路、小辺路、大辺路、伊勢路、大峯奥駈道をじっくり歩いた記録。中辺路は上皇たちに使われたメインルート。小辺路は高野山から深い山の中を通る本宮への最短ルート、大辺路は参拝を考えれば大回りになるが、海辺をつたう生活道として発展した。これに対して、大峯奥駈道は修験道の開祖・役行者が開いたと伝わる修行の道で、古道随一の険しさを持つ。筆者は通うのではなく熊野の土地に住んで、内面からも古道を見ている。足で稼いだルポ。
昔の人はなぜ古道を歩いたのか
筆者はチベットも訪れたことがあるそうです。体を大地に投げ出し、祈りながら芋虫のように進む五体投地を見てきたとか。平均標高が4千メートルを超す生活条件は過酷。環境の厳しさは、人を何かにすがらせる。古道の往来が盛んだったころの日本も、何かにすがらなければならない厳しい境遇にあったのだろうかー。そうつづっています。レジャーで歩くのとはわけが違うのでしょうね。
僕は信仰心がほぼありません。人生で苦しいとき、何かにすがりたい気持ちは理解できますが、何かが助けてくれるとは思っていないし、助けられたこともありません。苦行が悟りを開くとも、世の中をよくするとも思ってません。滝に打たれて世界平和を祈る暇があったら、ごみ拾いをしたり、社会で働いたりしてもらう方がよっぽど役立つのにと思ってしまいます。
それでも、古道には確かに魅力がある。信仰心とは違う部分だと思いますが、理由は自分でもまだよく分かりません。暑くならないうちに、歩いてみようかな。
ほどこし
僕は大学時代にバイクであちこちツーリングしていましたが、出会った人々は大抵親切にしてくれました。それに甘え、大した予定も立てず、全国をぶらぶらして、食べるものや寝るところがないと、助けてもらっていました。今思えば恥ずかしいけれど、その当時はそういう旅が格好いいとすら思っていました…。
本の中で少し似たシーンがあって印象に残っています。筆者が北極海沿岸のイヌイットの村で老人の家を訪ねた時、「くそったれジャップ。今日は何を恵んでもらいたい」と怒鳴られます。別にほどこしを受けに寄ったのではなかったけれど、「心のどこかで自分を見透かされた気がした。良心に寄生して旅をしている」といったくだりがありました。それでも、旅はやめられないとも。恩送りのように、旅で受けた世話は、別のどこかで、必要としている誰かを世話して返せばいいのかもしれません。僕はそうしているつもりです。まだまだ、受けた恩の方が大きすぎますが。
熊野古道とサンティアゴへの道
筆者が古道を訪れるきっかけになったのは、スペイン北部の「サンティアゴへの道」という巡礼路を歩いたこと。850㌔を踏破。フランスから42日間かけて大聖堂にたどりついたという。実は僕も「サンティアゴへの道」は歩いたことがあります。ただし、ラスト5㌔のみ。大聖堂に到着すると、歓喜に湧く巡礼者に囲まれ、一緒に祝おうと誘われました。「いや、僕ラスト5㌔しか歩いてないので、何か申し訳ないです」と言いたかったのですが、相手が何語なのかも分からず、とりあえず一緒に喜び合っておきました。850㌔と5㌔、重みはずいぶん違いますが、神様ならそんなこと気にしませんよね。