あなたとして見た私

小説

この世の喜びよ(井戸川射子)

娘たちが幼い頃、よく一緒に過ごした近所のショッピングセンター。その喪服売り場で働く「あなた」は、フードコートの常連の少女と知り合う。言葉にならない感情を呼びさましていく思い出すことは、世界に出会い直すこと。芥川賞受賞作。

講談社より

エンタメ感はほぼゼロ。そういうのを期待すると退屈かもしれない。でも、読むのが好きな人、何より書くのが好きな人にこの作者の技法は面白い。物語の設定もよくできている。何も起こらない話でもOKな人は読んでみて。

お薦め度  

ポイント

・二人称の魅力

・地味な2人のあるある

・言葉の使い方

二人称の魅力

 この作品最大の特徴は2人称、主人公が「あなた」で描かれている点である。一般的には1人称、私として描くか、3人称で穂賀(主人公の名前)となる。2人称の作品も読んだことはあるが、これまで読んだ作品とも趣が違う。この作品の2人称は1人称近い2人称(説明がややこしいが)。私をよりリアルに描くための2人称だと感じる。私が語るより、あなたを描く方がより「私」がリアルに浮かび上がる。そのための仕組みだと感じた。

地味な2人のあるある

 物語は「あなた」とフードコートによく来ている少女との出会いによって動く。動くといっても、ドラマ的なことはほとんど起きない。少しヤングケアラー的な少女、小さな弟の世話をしていて、そんな家庭とちょっと距離を取りたくてフードコートにやって来る少女との会話で、あなたは2人の子どもを育ててきた思い出がよみがえる(子どもはもう少女より大きい)。

 少女は15歳だが、弟は1歳。母親はさらに3人目を妊娠中。弟を午後7時に寝かしつけるが、9時になっても寝付かないことは普通にある。少女が寝たふりをしてもずっと寝ないで横に立ったり、笑ったり。「自分が変な顔になってきちゃってんのが分かるよ。胸の中が出ちゃうよね」と少女は語る。子どもができるまで、こんなに自分のペースを乱されることはあまりない。食べたい時に食べて、眠くなったら寝る。当たり前のことができなくなる。それが楽しい時もあるかもしれないが、まあ大抵は楽しくはない。子育てのあるあるを当事者を通じ、体験者(主人公)が思い出し、自分のこれまでを振り返っていく構成が巧だ。

 ここで子育て支援の起業をするとかだとドラマだが、この物語ではそんなことは起きない。世界は何も変わらない。でも、何かが変わっている。ラストはタイトル通り、この世の喜びをと感じるか。

言葉の使い方

 作者は「言葉を、すごく上手に使いたい、流れていき楽しい、固定でき楽しい、言葉は忘れないでいようとする祈り、より合わす縄、借りて返し馴染んでいく布、素晴らしく長い距離を飛ぶことのできる、それ同士でぶつかり渡と繁殖を続ける鳥…。受賞のことばで語っているように、言葉の使い方はかなり力を入れている。

 インタビューでもこんなことを答えていた。「キラキラ光っている」みたいな耳慣れた比喩、オノマトペ、よく耳にする形容詞はできるだけ使いたくないと思っている。自分の目にはどう映っているのか、それを見たままに表現するのが、私にとって文章を書くことなのです。知っている単語を、知っている順番で並べても私は楽しくない。これって、文章だけではないですよね。普段の生活の中でいかに自分の言葉で話している人が少ないか、自分自身はどうなのか。考えさせられます。

 ちなみに作者は現役の国語の先生だそうです。どんな授業をしているのかも興味ありますね。

編集後記

 僕はエンタメ小説を好んで読むが、イコール派手な作品が好きなのとは少し違う。地味か派手かは表現の方法(あるいはジャンル)であって、作品の面白さとは関係ない。むしろ、地味な作品はわりと好きだ。なので、この作品の趣向はなかなか面白い。実はもう一つの芥川賞受賞作品の方により興味があったのだが、ついでに読んで得をした気分。でも、作品より興味をひかれたのはインタビュー。自分の目にはどう映っているのか、それを見たままに表現するのが、私にとって文章を書くことなのです。それこそシンプルだけど、本質的で違ったジャンルでも文章を書く者としてそうありたいと思っている。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA