親切で世界を救えるか(堀越英美)
なぜ鬼の頸を切れない剣士・胡蝶しのぶが、子どもたちの人気者になったのか?「鬼滅の刃」から「ウ・ヨンウ弁護士は天才肌」「すずめの戸締り」「平家物語」「ミッドサマー」「コンビニ人間」「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」までー。
「ケア」が抑圧的で退屈でダサかった冷笑の時代を終わらせ「ケア」できる人=かっこいい!へ。
(本書帯より 太田出版)

ちょっと挑戦的なタイトルに引かれ、読んでみました。最近のマンガやドラマを引き合いに出し、ケアへの感覚が変わってきていると論じるユニークなケア・カルチャー入門。なるほどと思うこともあるし、反省もさせられる。ケアに興味がなくても、ちょっと生きづらさを感じている人はぜひ読んでみて。
お薦め度
いい子の台頭
いい子、優等生という言葉の裏に、本来の意味とは逆のネガティブさを感じることはありませんか?また自分が使う時もそうした二重の意味で使っていませんか。いい子はつまらない、という風潮が広まってずいぶん経ちますが、令和になって、いい子が台頭しているようです。
昔のいい子を担保していたのは儒教的な「忠」「孝」ですが、今のいい子、ヒーローは違います。秩序を守るためではなく、それぞれが異なる他者の感情を想像し、配慮し、手を差し伸べるといった具体的な実践に価値をおく倫理、ケアの倫理を持っているというのが、本書の訴えです。強者だけが生き延びるに値するという「自然の摂理」があります。一方で、相互にケアしあわなければ生き延びることができないという「自然の摂理」もあります。ケアできる人が主人公、ヒーローに。時代は変わりつつあります。
ケアは退屈か
ケアする人がヒーローなんて信じられない、という人もいるかもしれません。ケアする者は学校や家庭で重用される一方、同年代からは退屈で面白みに欠ける存在だとみなされてきたからでしょう。ケアをしている人なんて退屈だというわけです。
かつてアスリート、ミュージシャン、俳優、作家、お笑い芸人といった人々は、人を人とも思わないふるまいで天才性をアピールしていたことがありました。
一般人もそうです。「昼休みは元気に友達とボール遊びする」「高校生にもなったら恋愛して、彼氏彼女をつくらねばならない」というルールがあり、これに沿わないと「変わり者」扱いされます。「変わり者」に突っ込んでいれば、「まとも」な側にいられる。そうした仕組みを感じたことはありませんか。
しかし、最近は他人への気配りができる人が多い。優秀な若者は、ケア能力も総じて高いのが通例です。気難しい天才は、居場所がなくなってきました。違いも少しづつ認められてきているのではないでしょうか。地方ではまだまだですが。
平家物語
読み継がれる古典に「平家物語」があります。痛快な話ではありません。平たく言えば、平家のしくじり物語。ヒーローものではないのに、なぜ時代を超えて受け入れられてきたのでしょうか。令和の時代にもアニメとして人気を呼びました。
アニメの平家物語にもケアする人物がいます。徳子です。運命や歴史を変えるような働きをするわけではありません。「望まぬ運命が不幸とは限らない」「望み過ぎて不幸になった人を多く見てきた」。徳子は父・平清盛の権力欲の犠牲者でありながら、自分の人生がコントロールできない状況に置かれても、ケアに生きることで尊厳を失わないという倫理を体現する存在として描かれます。
ケアの視点から見ると、物語が少し違って見えます。もともとは琵琶法師によって語り継がれてきた物語。琵琶法師の多くは盲目。自己の輪郭を持たないことで、異界のものたちに声を与え、聴き手の感情移入を促す。ケアの実践には、このように他者に開かれた存在であることが重要だそうです。
地域の祭り
地域の祭りで、中高生が盛り上げに一役、なんてことがあったら地方新聞が飛びつくでしょう。実際、いい話だし、共感する人も多いはず。実際にその通りだったなら。
本書で紹介されている地域行事はずいぶん違います。町内会の偉いおじさんが、ジャージで参加している中学生を指さして「まじめなので、こきつかって」と勝手に言う。それを聞いている同じくこき使われている女性陣に不穏な空気が漂う。しょぼい地域行事にそうそう人は集まれない。中学生の目から光が失われていきます。
これはどこの地域でもありそうな話です。「地域の絆」「伝統を受け継げ」。圧にさらされた子供が、地域に愛着を持つわけがない。目的も手段もずれている地域活性化です。
編集後記
地味な本です。取り立て、へぇと驚くほどのことはありませんが、考えさせられることは結構ありました。しかも題材が「鬼滅の刃」「ウ・ヨンウ弁護士は天才肌」とか最近のコンテンツで入り込みやすい。ケアできる人=かっこういい、に僕は賛成です。僕も属性はそちらに近い。周囲に同タイプがあまりいませんが。