戦争を語れますか?/同志少女よ、敵を撃て

小説

同志少女よ、敵を撃て(逢坂 冬馬)

一九四二年、独ソ戦のさなか、モスクワ近郊に住む狩りの名手セラフィマの平穏はドイツ軍の襲撃により突如奪われる。母を殺され、復讐を誓った彼女は女性狙撃小隊の一員となりスターリングラードの前線へ──(早川書房ホームページより)

熊野堂
熊野堂

第11回アガサ・クリスティー賞/2020年本屋大賞受賞作。ソ連が舞台の作品というだけでも日本では珍しい。サクサク読めるけど、考えさせられることも多い。戦後80年に一読する価値あり。

お薦め度 

ポイント

・群像劇

・正義とは

・戦争の語り方

・戦後80年

群像劇

 第二次大戦下のソ連、ソ連とドイツの戦いが舞台になっているが、予備知識はそれほどなくても大丈夫。僕もどこまでが史実なのかはよく知らない。前半、狙撃手として訓練を受けるシーンは一種の学園ものののりでもある。狩猟をしていた主人公をはじめ、いつでもはつらつさを失わないシャルロッタや狙撃の名手アヤ、年上のママ、秘密を持ったオリガ、彼女らを束ねるイリーナとそれぞれ複雑な背景を持った女性陣が時にぶつかり、励まし合い成長していく。少女版(最近は実際に少女が主人公の作品もあるが)ガンダム的な要素もある。それぞれのキャラクターに感情移入していくだけでも、戦争への複数の視点を持ち、戦争とは何かが少し見えてくるかもしれない。ちなみに、僕のお気に入りはオリガです。

正義とは

 戦争とは正義対正義のぶつかり合いなので、作品中でもソ連とドイツ、ソ連側から描いているけれどどちらが正義とも言っていない。むしろ、どちらも正義ではない、戦争自体がおかしいというのがメッセージになっている。

 正義は国家だけにあるのではない。個人がそれぞれの正義を持って戦っている。主人公は女性を守るため、ある人物は出身地の誇りを取り戻すため、看護師は敵味方に関係なく命を救うため。その正義が国の正義と合わなくなった時、軍人はどう対処するのか。戦争が終わった時、狙撃手はどう生きるのか。作品の中でさまざまな問いが投げかけられる。これは私たちの日常でも同じだ。

 何のために仕事をしているのか。その意義と会社(自治体)の正義、社会のニーズは一致するか。何のために生きるのか。自身の正義を通したいなら、他人の正義も尊重する必要がある。戦争とは何か。どうすれば回避できるのか。私たちは日々、選択を求められている。

戦争の語り方

 日本で戦争は語る時は、被害者の視点が圧倒的に多い。実際に各地で大規模な空襲を受け、世界で唯一原爆まで落とされている。海外で多くの戦死者を出し、その中でも直接の戦闘でなく栄養失調など軍の作戦のまずさから命を落とした人が多い。シベリアに抑留されていた人も、中国からなかなか日本に帰れなかった人もいる。「だから戦争はやめよう」。これは一理あるが、全てではない。日本は加害者でもある。アジアの各国で多大な被害を出してきた。そのことはあまり語れない。今でもアジアを植民地から救うためだった、正義の行動だと言い張る人もいる。

 でもこの論法は日本だけではない。ソ連もドイツも多大な人民の命を失った。女性が性暴力を受けた。一方で、相手国に大きな損害を与え、性暴力の加害者にもなった。ドイツはユダヤ人虐殺についてのみ丁寧に謝罪しているが、性暴力の加害者としてはどうだろうか。被害を受けたけれど、ユダヤ人のことは謝罪しているよというスタンスではないだろうか。正義の話と同じで、一方的な加害者、被害者は国単位ではなかなか発生しない。この論法はそろそろやめた方がよさそうだ。

戦後80年

 今年は戦後80年。夏が近づくと戦争の話題が多く出ることだろう。それはそれで意味があることだが、そもそも戦後80年という論法でいいのか。今は戦後なのか。この作品が話題になった後に、ロシアによるウクライナ侵攻が始まった。そしてまだ終わっていない。中東危機も依然続いている。戦争はまだ終わっていない。戦後なんかではない。自身が地理的に遠く離れていても、国際化の時代である。経済的にせよ、政治的にせよ、私たちはこの戦争に無縁ではない。戦争をどう止めるか、または終わらせるか。戦争をどう語るかから始めてはどうか。そのきっかけの一つにこの作品はなるかもしれない。

編集後記

 ライトノベル的なのりもであるが、伝えたいメッセージは骨太。実際に戦地を訪れたことがない私たちが戦争を考える材料になる。こうした作品がもっと出てきてもいい。一見遠くの世界を描いているようで、とても身近な話題。エンタメ作品としての完成度は高い。映像化してもっと知ってもらいたい。

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