掏摸(中村文則)
東京を仕事場にする天才スリ師。ある日、彼は「最悪」の男と再会する。男の名は木崎、かつて仕事をともにした闇社会に生きる男。木崎は彼に、こう囁いた。「これから三つの仕事をこなせ。失敗すれば、お前を殺す。逃げれば、あの女と子供を殺す」――運命とはなにか、他人の人生を支配するとはどういうことなのか。そして、社会から外れた人々の切なる祈りとは……。
その男、悪を超えた悪――絶対悪VS天才スリ師の戦いが、いま、始まる!!(河出書房新社ホームページより)

ミステリー、エンタメ性の高い文学作品。中村文則は名前は知っていて、結構ヒットしているのも知っていたけれど、初読。あんまり堅苦しい話は苦手だけれど、ご都合主義的なエンタメでは物足りないという方にお薦め。普段あまり本を読まない人もすいすい読めそうです。
お薦め度
運命を信じますか?
運命を信じますか?辞書によると、人間の意志を超越して人に幸、不幸を与える力。とあります。ただ必ずしも定まったものをさすのでなく、将来の成り行きとしても使います。
例えばどこの家庭、国、時代に生まれるかは自身で選択できないので、運命の領域でしょう。この先の社会、国がどうなるかも個人の意志を基本的に超越しているので運命かなと。でも、自分の人生が決まった道を歩いているだけと考えるのは違う気がします。もし、そうなら全然面白くありません。
運命は個々の選択と巡り合わせで、どんどん予測不能に変化していきます。思い通りにならくても、自分の意志周囲の人々の意志、世界中の人々の意志による選択の結果です。たちが悪いの宿命です。運命が決まっているみたいな言葉。でも、そんなことはない。今私たちは自分で選んだ道を歩んでいるはずです。
運命をどう切り開くか。富裕層も貧困層も、子どもも高齢者も。選択肢はそれぞれ違うけれど、日々運命を切り開いています。
人生を支配できるか
人生は本当に自分の意志、選択でできているのか。作品は疑問を投げかけます。闇社会の大物・木崎は主人公の人生を支配しようとします。自身で選択していると思っていることが、すべて支配者の思惑通りに進んでいるだけだとしたら。他人の人生を思い通りにすることは、至福なのか。完全にとはいなかくても、人は他人の人生を支配しようとしているのではないでしょうか。恋人であったり、子どもであったり、部下であったり、取引先であったり。そうしたことを考えさせられます。
木崎が何者かは作中でもあまり明かされないのですが、かなり大物の風格。対する主人公は天才的なスリ師ではあるけれど、社会の片隅に生きる一般人。真正面から対するにはあまりに分が悪い。主人公は自身の強みを最大限に生かしながら、はね返すより、しなやかにかわすことを狙うしかなさそうです。ラストの場面は秀逸。人生とは、運命とはを考えさせられます。
大江健三郎賞
大江健三郎はノーベル文学賞も受賞した日本で最も有名で、高く評価されている作家の代表格です。大江、村上春樹、中上健次、村上龍あたりは、作家の番付があれば常に上位にくるでしょう。でも、大江健三郎賞はどれだけ知られているでしょうか。芥川賞や直木賞に比べ、圧倒的に知名度が低いですよね。
大江賞は2007年度から2014年度まで8回しかなく、今はもう続いていません。この賞、何がすごいかというと選考委員が大江自身だったんですね。しかも、受賞者との対談も行う。日本最高峰の作家がです。
大江の作品は難解なイメージがありますが、受賞者の顔ぶれを見ると必ずしも難しい話ばかり書く作家ではなさそう。長嶋有や綿矢りさといった芥川賞作家や、文芸評論家の安藤礼二なども受賞しています。受賞作品は海外でも出版されます。本人はもう亡くなられましたが、今だったらどんな作家を選んでいるのか。興味津々です。
エンタメと文学
掏摸は犯罪小説的な要素が強く、エンタメ性が高い。中村文則はダークで深い思想性を持った作品を連発している作家のようです。ミステリーは味付けで、その中で深い自問自答がある。今回なら人生、運命なんかがそうですね。スリ師の主人公以外にも同じような仕事をしている人や売春婦、貧困で万引きを強要される子どもなど、ハッピーな人はあまり出てきません。重苦しくなりそうだけれど、エンタメ性が強いのでさくさく読める。でも、奥は深い。エンタメと文学のいいとこどりをした作品で、これを選ぶ大江健三郎のセンスも素晴らしい。各国で翻訳され、高い評価を得ているそうです。
編集後記
また面白い作家を見つけてしまった。見つけたというか、世間的には有名でも、僕も主要な作品の内容は何となく知っていたのですが。これは他の作品も読む価値ありです。読むべき作家が増えると、新作を読む機会が減ってしまうのが難点ですが、今年は読書時間を増やしていこうと思います。