- 南三陸日記
- 荒地の家族
- Be the light

東日本大震災から14年。今の小中学生はもうあの時の衝撃を知らないんですよね。いや当時を知っている人だって、忘れている人、過去のことにしている人がほとんど。東日本大震災で何があり、今はどうなのか。これからどうするのか。考えるきっかけになる3作です。
南三陸日記(三浦英之)
お薦め度
住んで、泣いて、記録した。東日本大震災直後に受けた内示の転勤先は宮城県南三陸町。瓦礫に埋もれた被災地でともに過ごしながら、人々の心の揺れを取材し続け、朝日新聞に連載された「南三陸日記」は大反響を呼んだ。開高健ノンフィクション賞など、数々の賞を受賞した気鋭のライターが描く珠玉のルポタージュ。(集英社文庫より)
被災地から伝えること
東日本大震災と同じ2011年の9月に、紀伊半島大水害が起こりました。紀伊半島以外の人がどれだけこの災害を知っているかは分かりません。しかし、かつてない規模の大水害で、多くの犠牲者が出ました。都会のマスコミが多く紀伊半島を訪れ、記事になりそうな出来事を探して「報道」していきました。それは地元の感覚とは少しずれたもの。でも、都会の人が求める「物語」なのかもしれません。
ある土砂災害の現場。連日取材に通っていたとろ、行方不明だった1人の遺体が発見されました。慎重に土砂を除き、作業が終わったのは日付が変わるころ。通行規制があって、現場から30分ほど歩いた場所に車を止めていました。都会のマスコミと一緒に真っ暗な道を歩いて帰ったのですが、一人の記者が「あー星がきれいだ。来てよかった」と笑顔で語りました。「はっ?さっき遺族のコメントもとったし、こっちは気がおかしくなりそうなのに、何考えているの」。この記者にとっては、報道する記事が取れた。それで万事OK。ここで起きている出来事なんて他人事なのでしょう。確認していないから違うかもしれませんが、あまりの感覚のずれに愕然としました。
南三陸日記の著者は被災地の出身者ではありませんが、新人時代を過ごした地で再び住み込んで日常の変化や感じたことを「報告」するスタイル。地方紙のスタンスととても似ています。いや、地元民でない分、僕たちより踏み込めこめることがあるかもしれない。災害大変でしたね、で終わらない、続いていく「物語」があります。
みんな一律に被災地と思われますが、被災地にも格差があります。大きな被害があった地域、被害が小さかった地域。身内に犠牲者がいる人、いない人。冒頭の一遍では「家も家族も無事で申し訳ない」。そんなコメントが紹介されています。無事でいたことを謝らなければならないなんて、被災地の空気をとても表しています。
震災から1年後、東日本大震災の被災地を訪れました。すでに復旧しているエリア、そして以前の姿が全く想像できない(僕の視点からすれば)1年経っても全く復旧進んでいないエリア。その差がくっきりと表れていました。紀伊半島大水害も同じです。被害の大きかったエリアで取材し、会社に戻るとその周辺は日常を取り戻しています。王将もすき家も駐車場はいっぱい。社内の人間ものほほんと競馬の話やドラマの話をしている。この落差は何なのか。そういう私も被災していない。この感覚が本当にしんどかったと今でも思い出します。
被害が大きいエリアの中でも、家が全壊か無傷かは紙一重。全壊の家屋を片付けている数メートル先の家は無傷で明々と光が灯り、バーベキューを楽しんでいる。匂いが被災した家にまで届く。誰も悪くない。バーベキューも悪くないのだけれど、被災した家主の中ではいろいろな感情がぐるぐる巡ったそうです。
荒地の家族(佐藤厚志)
お薦め度
元の生活に戻りたいと人が言う時の「元」とはいつの時点か――。40歳の植木職人・坂井祐治は、あの災厄の二年後に妻を病気で喪い、仕事道具もさらわれ苦しい日々を過ごす。地元の友人も、くすぶった境遇には変わりない。誰もが何かを失い、元の生活には決して戻らない。仙台在住の書店員作家が描く、止むことのない渇きと痛み。(新潮社サイトより)
美化しすぎない被災地
震災に立ち向かうわけでもない、パニックを描くわけでもない。震災後の物語です。そして、この物語に劇的な復活劇はない。被災地は少しずつしか変わらない、そこに暮らす人も少しずつしか変わらない。こんなに震災後を実直に描いた文学作品を読んだのは初めて。どうしても、何かが回復する温かい話を読みたいという願望はあるし、現実の世界にも求めたくなる。でも、これがリアル。ただ、絶望的な話ではありません。希望はある。主人公は生きている。前に歩いている。子どもも育っている。最後の主人公の母親のセリフがいい。名言でもなんでもないけど。いろいろなものを抱えて、時間は止まらず動き続けている。そんなメッセージがあります。
復興といっていいのか、被災して数年後の被災地の風景の描きが方が秀逸です。僕も被災1年後に現地を訪れたことがあるからよりリアルに伝わります。白い要塞のようにそびえ、海から人を守っているのでなく、人から海を守っているように見える防潮堤。観光気分で訪れた人には立派な防潮堤だなとか、海岸の景観を壊しているとかといった感想を持つだろうが、地元の心情からはこう感じるのではないでしょうか。
人の心がどうだったか、祐治は忘れそうになった。取り戻そうとしても、更地になった町が戻らないのと同じで、正しい感情の動きが戻らない。被災地で暮らす作者からあふれる感覚を感じて、この一文も印象に残ります。
Be the light (ONE OK ROCK)
お薦め度
東日本大震災を機に制作された美しいバラード曲。ONE OK ROCK(ワンオクロック)の6枚目のアルバム「人生×僕=」(2013年)に収録されています。東日本に限らず、世界中で起きている災害や紛争など悲しいできごとに共通するような思いが込められています。
音楽だからこそのメッセージ
僕は車での移動中は音楽を聴いていますが、大半は10~20代の頃に聴いていた曲。やはり若い頃に熱心に聴いていた曲は今聴いても心が動くのですが、一方で最新の曲にはなかなか手が出せていません。音楽を聴く時間もグッと減りました。ただ、そんな中でも例外的なアーティストはいて、その一つがONE OK ROCKです。普遍性のあるメッセージは、おじさんにも響きますね。Be the lightは東日本大震災の復興ソング。全編英語歌詞なんですけど、曲に込められた祈りが伝わってきます。
Time won’t stop So we keep moving on
時間は決して止まらない。だからこそ、生き続けるんだ。
Yesterday’s night turns to light
昨日の闇は光へと変わり
Tomorrow’s night returns to light
明日の闇も光へと戻る
Be the light
その光になれ
編集後記
僕は11年8月にボランティアで福島県を、12年3月には取材で宮城県、岩手県を訪れました。
ボランティアで行ったのは震災の直接的な被災地でなく、豪雨災害の被災地。和歌山から深夜に車を走らせ、早朝からひたすら泥かき。普段力仕事をしない僕は大した戦力になったと思えませんが、被災地の住民や全国から集まったボランティアとさまざまな出会いがありました。
同じ年の9月に、僕の地元で紀伊半島大水害が発生。被災地は津波の後のような惨状でした。同じ町でも被害を受けた地域とそうでない地域の落差は大きく、被災地域から取材を終えて会社に戻ると、周辺は全く変わらない日常がある。取材先では福島で出会ったボランティアと再会。僕も少し落ち着いてからボランティアに参加させてもらいました。
震災から1年での取材では仙台市、石巻市、南三陸町、宮古市、山田町などを訪問。仮設住宅で暮らす人、商売を再開した人、家庭を訪問し続けるボランティア…。ここでも1年たってもまだ時が止まったままのような人たちと、日常を取り戻した地域との大きな差がありました。
こうしたギャップから分断を生まないよう、その間をつなぐのが地域新聞の、記者の役割だと感じています。もっとも、社内でさえ分断はあるのですが。
和歌山は近い将来、南海トラフ地震の発生が予想されています。ノストラダムスの大予言的なものでなく、地震はある程度周期的に発生しているので、地震の規模がどのくらいになるかはともかく、発生自体は避けられません。その時、その後、何ができるのか。まずは命を守り、自分が光になる。その準備を今からしないといけない。3月に入ると再認識されます。